【話の肖像画】ミハイル・バリシニコフの記事全5回の印象に残った言葉

このブログでも紹介しましたが、〈第29回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)の受賞が決まったバレエ界のスーパースター。ミーシャの愛称で知られている、ミハイル・バリシニコフ。

受賞を記念しての特集記事というのでしょうか、

産経ニュース電子版に5回に分けて記事が掲載されました。

それぞれの回で個人的に印象に残った、文言を紹介させていただきました。

全文は、リンク先を記してありますのでご興味のある方は

ぜひ、すべての記事の全文をお読みいただければと思います。

私の印象とは違った箇所、心に響く言葉を発見されることでしょう。

天才ダンサーとして、より自由な表現ができる場所を求めた結果、

それは亡命という、とてもとても大きな決断。

アメリカでの新しい生活とバレエ。

幼い頃のバレエを始めたきっかけ、その思いを大切に、応援してくれた母の思い出

故郷ラトビアへの思いと亡命した自分を受け入れてくれたアメリカという第二の祖国。

後進の若いダンサーを支援する環境を整え、その二つの祖国への恩返し・・・・

芸術に対する情熱は衰えていない。

【話の肖像画】
バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ 全5回に分けて
産経ニュース電子版に掲載された記事
1 あえて自分を賭けてみる
2 母と師匠が育て上げてくれた
3 米国に亡命、新たな表現へ
4 共演した坂東玉三郎 演技だけでなく生き方そのものがすごい
5 2つの祖国への愛情

私の好きな言葉に、米国の舞踏家で何度も共演したマーサ・グレアムが語った「肉体は嘘をつかない」というものがあります。自分のスタイルを確立した芸術家というものは、その肉体=パフォーマンスを見せただけで立ち所に芸術的な真実を理解させることができる、という意味でしょう。

バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ(1) あえて自分を賭けてみる より

「ダンサーというのは、17歳か18歳で学校を卒業したら、自分が自分の先生とならなければならない」

バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ(2) 母と師匠が育て上げてくれた

現役生活は15年から18年、長くても20年ほどです。

だから私は伝統や格式にとらわれず、芸術的情熱を十分に発揮できる場所を見つけ、ダンサーや振付師として働きたかったのです。当時のソ連の政治状況は、芸術家の自由な表現を制限するなど、居心地が良くありませんでした。それで、私は西側に移る決意をしました。

バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ(3) 米国に亡命、新たな表現へ

バレエダンスと演技の間には大きな違いはあるでしょう。しかし、一生懸命に稽古に打ち込み、自分よりも経験豊富な人を敬い、先生の要求をよく理解し、それに応える-といった真摯(しんし)な姿勢は、バレエダンスや音楽、演劇といったジャンルの違いを問わず、大切なことだと思います。それは、私が若い頃からモットーとしてきた「パートナーには寛容であれ。自分には厳しい批評家であれ」ということです。

バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ(4)共演した坂東玉三郎 演技だけでなく生き方そのものがすごい

〈2005年、米ニューヨークにバリシニコフ・アーツ・センターを設立。若手芸術家の育成にも力を入れている〉

成長を夢見て世界中からニューヨークに集まる若い芸術家たちに対し、最初から最後まで、しっかりと勉強できる場所を提供したかった。経済的にも援助し、立派な芸術家に育つように見守っていこうと思っています。

バレエダンサー ミハイル・バリシニコフ(5) 2つの祖国への愛情

最後に、ミーシャの名言集から

私は他の誰かより上手く踊ろうとはしない。
自分自身より上手く踊ろうとするのみ。

ダンサーは舞台の上で、自分のすべてをさらけ出している。すでに彼らが見せている以上のものを求める必要はない

芸術を志すものは、結婚したり子供を持ったりしてはいけない。芸術とは、どこまでも利己的な経験だからだ。

通りを横切って歩くのは、リスクだ。