傘がない

都会では自殺する若者が増えている

今朝きた新聞の片隅に書いていた

だけども問題は今日の雨 傘がない

この歌詞は井上陽水さんが1972年に発表した「傘がない」という曲の冒頭の部分の一節です。

若い方はご存じないかもしれません。

当時の若者の社会との関わりについて考え方の一部を切り抜いた曲だと

思います。

一方で生きることを放棄している若者があり、また一方では

雨模様のため彼女に会いに行くのに傘がないことが問題と考える。

個人と社会との関わりのなかで、考えの違いが浮き彫りにされていますが

実は、もの(対象)と関わる人の問題は

哲学的な認識論を持ち出すまでもなく、もの(対象)に対して

自分との関わりがない場合極めて希薄で無責任です。

 

最近おきたスタジオでの出来事で感じたことがあります。

スタジオにはたくさんの傘があったのですが

雨のたびに借りていくひとがあり

いつの間にか、一本もなくなってしまいました。

「必ず返すんだよ〜」

「は〜い」

元気な声とは裏腹に、一度も実行されたことはありません。

傘を借りた人にとって、この傘は

もの(対象)としての価値しかなく

そこに意味や価値を感じることはありません。

しかし、貸した方にはそれぞれの傘(もの対象)には

個人的な体験があり、意味をもち、人生において価値観の一部となっています。

先ほどの歌のように、一方では無価値でまた一方では意味があり

価値をもった傘(もの対象)がある。

具体的には、一本の傘それは緑色の折りたたみの傘ですが

母が置いていった思い出の傘であり、その傘をみると

元気だった母の姿を思い出すのです。

またもう一本の女性用の傘は、

我が家飼っている猫「レイン」との出会いのとき、雨の降りしきるときさしていた傘で、その傘はレインとの思い出を呼び起こします。

私にとって傘というもの(対象)は単なるものではなく

個人の体験と結びつき、それは思い出となって人生の一部ともいえます。

ですから、意味があり価値のあるもの(傘)なのです。

 

ひとは社会生活のなかで多くの個人的体験を重ね生きていきます。

個人的に社会との関わりを拒否しようと思っても、

政治は関わりを無視できないものです。

国の定めた法律を破れば罰せられますし、税金をはらいます。

同じように、人から何かを借りれば持ち主に返す。

社会ルールとして当然です。

しかし、借りる側にもの(対象)に意味づけがなく

単なる物質としての存在でしかなければ、

個人としてはもの以上の意味を持つことはありません。

だからものすごく軽い〜

今風にいえば、なんでもスルーする存在。

言葉であれ、ものであれ

自分にとっての問題ではない。

無責任なのです。

わたしはこのことから、個人の人間の精神成長が極めて幼く

未成熟さを強く感じます。

生活年齢でいえば、18歳の選挙権を超えて

一般的に言えば大人なのですが・・・

それと芸術の世界に多少なりとも関わりをもっているその人の

もの(対象)を感じる心がまったく育っていない

感性の鈍さ、より深くものを感じ昇華させて自分の個人的体験として

まったく活かされることのない、単にある時間軸での出来事にしか

過ぎません。

そこに意味もなければ何の価値すら見出すことは難しいでしょう。

ひとつに人間の精神的は未成熟さがあり、またもうひとつには

感性の未熟さが加わり、人としての成長を見出すことが

困難です。

 

「あ!わすれた!」

といって、舌をだしてごめんなさい!

で済まされる年齢でもなければ、

社会人としての責任もとれない

無責任な存在でしかありません。

 

天才と呼ばれる存在であれば、社会生活を無視することも

ある意味可能でしょうが、多くのひとはそうではありません。

社会生活を無視できるほどの才能も努力も

おそらくしてはいないでしょう。

そうであれば、大人と呼ばれる年齢に達していれば

社会生活に支障のある生き方は

社会から信用はされないでしょう。

自分との関わりだけの狭い世界だけの生活では

一般的な世界ではまず通用しません。

おそらく小学生でも知っている

「借りたものは返す」

お金を借りたらきちんと返す。

そんな当たり前のことができていない。

 

社会生活においても信用されず

もの(対象)にたいする関わりと理解、

感じることもできず

芸術の世界で通用できるのでしょうか?

 

いったいバレエのレッスンで何を学んできたのでしょうか?

そんな中途半端な関わり、生き方から真に

成長できる何かをバレエから学ぶことができたのでしょうか?

このことが

実は傘がないこと(返さない)より

ずっとずっと悲しく、情けないのです。

 

実はもの(対象)にはものすごい力があるのです。

20世紀を代表する世界的な傑作小説「失われた時を求めて」のなかの一節

「一片のマドレーヌ」から呼び起こされて過去の思い出を綴っていく

この長編小説には個人的体験が思い出として過去の時間を遡りながら

様々な人生を語ります。

 

もの(対象)のもつ力は単に作家に一編の小説を書かせるだけの

ものではなく、その作家が一生をかけて人生を語るほどの力があるのです。

 

こうしたことにまったく反応できず、

「傘ぐらいで・・・」

大したことでもないと、勝手に軽く考え

「甘えの体質」はいつまでも幼児のような精神未熟児として

年齢だけを重ねて社会に関わりを持ちながら生活している。

 

土居健郎さんが1971年に発表した「甘えの構造」は

こうした日本人の多くにみられるこの個人と社会の関係、対人関係の構造見事に分析しています。

わたしは高校生だったとも思うのですが、

当時こうした甘えの体質、親子、対人関係など人間関係にみられる

依存体質が大嫌いでものすごく感銘した記憶があるのです。

あれから40年以上の時が過ぎ、改めて今回の出来事から

感じることを書いてみましたが、甘えは一向に変わっていないのでは

ないかと思えてなりません。(個人的な見解です)

 

芸術の世界に足を踏み入れ

その世界で生きていくことは、市民生活との関係のなかで

多くの芸術家が落ちこぼれていることをご存じでしょうか。

個人が属する社会の中で上手に生きていくことが下手な芸術家は

当然のことですが、多くの方との摩擦をかかえることが多いとおもいます。

それを許す寛容な場合もあれば、厳しく糾弾される場合もあり

気まぐれな社会の多くの人に振り回されることもあるでしょう。

後世に偉大な作品を残すことができれば

多くの方に賞賛されます。

しかし、評価されない、いや評価の対象にすらならない

埋もれていく芸術家はたくさんいるはずです。

 

ごく一般的なな社会人より、はるかに優れた感性

もの(対象)を誰よりも、いや、そのもの(対象)の本質を

理解するだけの能力をもち、その感性を磨き続ける努力と

その理解したもの(対象)を自分の得意分野で

作品としてこの社会に発表する。

踊りが得意な人は踊りで自分を、自分が理解した世界を表現する。

文字を書くことが得意ならば、作家として、絵が得意ならば

画家として、それぞれの世界で表現することが芸術家であるならば

もの(対象)が発しているメッセージをどのように理解し

形(作品)として社会に提出する作業と一般的な市民生活との

調整は大きな負担でもあり難しい作業でもあるのは

十分承知していますが、

そのどちらも放棄することなく

上手に折り合いをつけて、人間的な成長を期待したい。

幼児的未熟な精神構造から一日も早く脱却して

ひとりの大人としてこの社会で生きていってほしい。

 

何かを学ぶには十分すぎるほどの環境のなかで

わたしたちは生活し、生きています。

しかし、その個人的な体験を、もの(対象)との関係を

スルーさせるだけでは、個人の精神的成長はありません。

 

それほど、幼稚で甘ったれだとは思いたくはないのですが・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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